一文字に込められた物


40歳の頃でしたでしょうか?お茶を少しの間習った事があります
行儀を知らない.正座が出気無い.落ち着きが無い・・・其れの解消にと思ったのです
半年位したでしょうか アハハ飽きっぽいと言うか 情けないと言うか★
教えてくれた先生ってのが女性でしたけど余り感じが良くなくお茶そのものより人に嫌気して止めてしまいました
マッ 生徒の私が憶えも悪く態度も余り良くなかったから教える側も嫌気さしていたのかもしれません


侘び.寂の世界は私には理解出来ませんでしたが正しい作法はまるで踊りを見ているようで
それはちゃんとやれば奥が深いのだろうと思っていました・・・入り口から中覗いた程度でしたけど
お湯を沸かしてお茶を点てて飲む 
ただそれだけの事を様式美として芸術みたいな世界にしちゃったのは何か在るのだろうと感じましたが勿論判りません


自分がこうして日記を書いていても語彙も乏しく文章も駄文で良い日記を書けたなんて中々思えません
迷いが有って人の日記を読み始めた4年前 感心した多くの日記に出会いました
書いている人の気持が滲み出て朝日に反射しキラキラ耀く海を見ている気分に成ったことが在ります
其れは有名な作家のように説得力ある名文とは言えないかも知れませんが一つの言葉 
短い文章にその人の気持が込められ当り前の事ですけど皆夫々色んな思いで確り生きているんだと随分気持がスッキリした憶えあります
アハハ だから人の日記を見る事好きに成ったのかも知れません
気持の篭らない日記がどれほど名文でも読む気に成らないのは
生きてる喜びが感じられないからかもしれません


禅の言葉見るようになって一層その感が強くなりました
たった一文字の言葉に深い意味があるのを感じます
それが2文字になり3文字に成るともっと耀きと鋭さが増すように思うのです
文字が10個も集まればその短い文の中に自分の思いを込める事が出来ます
長い言葉は要らないのだと思い知るようになりました
削りに削って簡素化しその短い言葉に事の本質を見出したのが禅じゃないかと想う程です
人の日記を見て感じるのはそんな事を漠然とながら判ってきたからじゃ無いかと思うのです


何も判らないままのお茶でしたが茶道ってのはその言葉を見て感じるのを
お茶を飲む事によって教えているのじゃないかと思っています
だから奥が深いのじゃないかと思う訳です
茶軸に禅語が多いのも目的とする所は同じ境地だから・・・?そんな風に思えて仕方有りません


ネットの人の足跡のコメントで今まで何人もの人を傷付けました
自分の思いが人に伝わらず誤解を受けた事が殆どですが其れは言葉の使い方の誤りと言うより
本質的にその人に対する自分の姿勢の間違いだったと思っています
そのネットでの人との交わりは茶道を習うことと何か同じ様な気に成ってます
今に成って言うのも可笑しな話ですけど茶道は格好だけじゃないのですね 
茶を点てる人が飲む人を思いやる其れが茶道の本質じゃないかと思うように成りました
アハハ 簡単な事に見えて実に難しい事です 
だってその侘び茶の創始者といわれた利休が自殺しないといけない目に遭ってるのですから★


生臭いですし脂ぎってますから無心なんてとても到達出来ません
人間が愚かでアホで惚けてますから意識的では有りませんが平気で人も傷付ける事多々です
せめて 吐く言葉を選んで静寂の世界にいたいと思うんですけどね・・・お喋りの私には相当荷が重いです
行儀の悪さ 人の事言えた柄じゃ有りませんね 開口不在舌頭上・・・喝!ですか マルッ!