そう好きな建築家でも無いけれど★

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以前にも触れましたが京都東山祇園町に有る祇園閣って建物は明治の中堅財閥大倉喜八郎が別邸に建てた附属建築物です
今は 大雲院と言うお寺の一部分ですが建設当時(昭和3年)は別邸と是と精々有って門と庭?
詳しい事は知りませんがお金持ちが金閣銀閣の向こうを張って銅閣寺なんてフンッしゃらくせえ事をってなもんです★
単なる展望台!成金趣味も良い所だと私なんか思っちゃいました ゴメン!
そんなにビックリするほどの建物じゃ無いと私は感じています
でも 上から見る景色はそれは京都の全てが見渡せる実に気分イイ光景が目に飛び込みます
天守閣感覚だったんでしょうね 祇園祭をこの上から眺めていたのですかねぇ 絶景かな絶景かなでした♪


建築主に私は興味を持つ方ですが大倉喜八郎ってどんな人かwikiで見て見ました
元々は越後生まれ鰹節店に奉公しその後1857年乾物屋として事業開始 東京でだったのですかね?
所が1867年(慶応三年)銃砲店を開業したのだそうです はぁ〜〜?です


今の街内に有る銃砲店と違って薩長会津に武器を売るブローカー?早い話武器商人?ギロッに成っちゃいます
アハハ 思い込み激しい私メ こいつは越後屋だなぁって思っちゃうのです
ご住職の話では暴徒か兵の侵入を恐れたのか寝室はRC造 事実か如何か知りませんが地下にシェルターまで作っていたとの噂も? 
発見されていませんからガセかも知れませんが★
そう言う気持ちで祇園閣と別邸を見たとご記憶下さい ニヒッ!


講演会や見学会の歴史学者?の諸先生は建築歴史学者伊東忠太を高く評価しておられますし
東京の建物の事は余り触れられませんでしたが伝道院や平安神宮そして大倉別邸や祇園閣にもそこそこ褒めておられました 
でも法隆寺建築論なんて大学院で博士号取る為の博士論文じゃなかったのですかね?


平安神宮なんて忠太がまだ大学院生 デビュー作とお聞きしましたが宮内庁技師の木子さんと仰る方がメインでしょ 
忠太は1867年生まれ 平安神宮は1895年内国博覧会のパピリオンとして建設開始 忠太28歳の時です 
一応共同設計と成ってますが未だ現場経験の無い忠太がそう発言力有ったとは私にはとても思えません  
アハッ私のなーんも知らん癖に偏見ばかり入りますからご注意を★
優秀な人ですから木子さんは彼にチャンスを与えたかも知れませんがパートナー何てとてもとてもって気がします
まぁ 平安神宮が切っ掛けでその後の寺社建築をかなり創っておられますがウエートは建築歴史学者
建築家としてはそう目立った物も無いような感じ受けます


だから 京都では伝道院が目立つ?伝道院も彼方此方のレンガ造建物を多く見ている私にはそうお洒落な建物とは思えません
モスク(イスラム教礼拝堂)と8角形の尖塔が珍しいですが 何か2階以上がごちゃごちゃした感じで私は個人的には好きな建物でも有りません
伝道院は1912年竣工ですが奈良少年刑務所は1908年竣工 
ロマネスク調の塔を左右に配置したお洒落なレンガ造の門を持っています 本館もそれは瀟洒な建物ですしね


同志社のクラーク記念館が余程カッコいいです ニコニコ♪
忠太の伝道院は彼方此方の国の建物のエキスを集め寄せてもちゃげたってそんな気がします
ガハハハ 惚け親父が忠太で賑わっている時にこんな事言うと『あほちゃれがっ!問題に成りませんねぇ』でしょ●
でもそう思っちゃったのだからシャー無いんです ですから祇園閣を祇園塔なんて馬鹿にした言い方して仕舞います
祇園塔何てネバダで見たモニュメントバレーの岩山見たいじゃん!何年か前初めて見た時そう思ったのです
ヴォーリスが最初 アメリカの極普通の2×4民家を近江八幡で在来工法でやり始めたそれとそうちがわんのじゃ無いかと
恐れ多くも文化勲章受賞の大先生に失礼な事言ってしまいます


建築史家としての彼はそれは評価高いでしょうけど 建築家としてはどかな?って思ってしまうのです
それよりやっぱ あの人は絵の道へ進んだら世界的評価を得た人じゃ無いかと1人で納得しているのです☆
でも それ以上に私にはあの人は凄いなぁと思う事が有るのです 明日に続きます ニコニコ☆